先週、合成生物学の国際会議「SynBioBeta」がオンラインで開催され、大学や企業の研究者が対談形式で研究成果を議論した。遺伝子工学とAIが結び付き、医療、食料、素材でブレークスルーが起こっている。会議ではCRISPR開発者Jennifer Doudna教授(下の写真、左側)が遺伝子編集技術による成果と課題を解説した。ヒト遺伝子の書き換えが世界で進み、研究開発に関する国際ルールを制定する必要性を説いた。

出典: SynBioBeta |
合成生物学とは
合成生物学(Synthetic Biology)とは人工的に生物の一部を生成し、また、それを改良する技術を指す。多くの研究分野から構成され、生物工学(Bio Technology)や遺伝子工学(Genetic Engineering)がその中心となる。特に、遺伝子工学においては、遺伝子配列を読み取る技術(DNA Sequencing)のコストが劇的に下がり、また、遺伝子配列を編集する技術CRISPR-Cas9の登場で、合成生物学が急速に進化している。更に、遺伝子工学とAI・機械学習が結び付き様々なブレークスルーが生まれている。
CRISPR-Cas9とは
CRISPR-Cas9とは遺伝子配列を高精度に編集する技術を指す。従来から遺伝子編集技術(ZFNやTALENなど)が使われてきたが、CRISPR-Cas9は容易に遺伝子を編集できることが最大の特徴で、瞬く間に世界で利用が広がった。CRISPR-Cas9を使った編集技術はカリフォルニア大学バークレー校(University of California Berkeley)のJennifer Doudna教授らにより開発された。
CRISPRとCas9
CRISPRはCas9と連動して稼働する。CRISPRは遺伝子の一部で、バクテリアなどに存在する。この構造は石野良純博士により1987年に大腸菌の中で発見された。一方、Cas-9はたんぱく質で、遺伝子を切断する機能を持つ。CRISPRとCas9は連携して働き、バクテリアの中に侵入したウイルスを見つけ、その遺伝子を切断する機能を持つ。つまり、CRISPRとCas9はバクテリアが備えている免疫機構で、ウイルスを殺し感染拡大を阻止する。

出典: Innovative Genomics Institute |
CRISPR-Cas9を遺伝子編集に応用
Doudna教授らは2012年、CRISPR-Cas9を使って遺伝子を編集する手法を考案した。これは「CRISPR Gene Editing」と呼ばれ、生物が備えている免疫機構を遺伝子編集に適用するもので、簡単な操作で遺伝子配列を編集でき、医療や生物学の分野で研究の必須ツールとなっている。 (上の写真、CRISPR-Cas9の構造。黄色のらせん構造がCRISPR、緑色の物質がCas9、水色のらせん構造が編集対象の遺伝子。)
CRISPR-Cas9で遺伝子を編集する仕組み
CRISPRは編集する箇所をピンポイントで見つけ、Cas9がその部分を切断する(下のグラフィックス)。切断した個所は細胞により修復されるが、前とは異なる塩基対が挿入され、その結果その遺伝子は機能しなくなる(左側)。一方、切断した個所に新たな塩基対を加えると、新たな遺伝子を生成できる(右側)。つまり、CRISPR-Cas9は特定の遺伝子の機能を停止させる操作と、新たな遺伝子を生成する操作ができる。

出典: Innovative Genomics Institute |
農業分野への応用
CRISPR-Cas9による遺伝子編集は幅広い分野で使われているが、農業分野で新しい作物が開発されている。従来から作物の遺伝子組み替えが実施されているが、CRISPR-Cas9を使うとこれを簡単な操作で高精度で実施できる。地球温暖化に耐性のあるトウモロコシの栽培などが始まっている。また、伝染病を介在する蚊の遺伝子を組み替える試みも進んでいる。蚊の遺伝子を別の遺伝子で置き換え繁殖機能を抑止し、マラリアやデング熱の感染拡大を防ぐ。
難病の治療に成功
Doudna教授はCRISPR-Cas9をヒト遺伝子の編集に適用することで難病を治療する研究に期待している。スタンフォード大学医学部(Stanford Medicine)はCRISPR-Cas9で遺伝性貧血(鎌状赤血球症、Sickle cell disease)の治療に成功した。この病気は赤血球が三日月状に変形し、酸素の運搬機能が低下し、貧血を引き起こし、多くの子供が成人になる前に死亡する。これは遺伝子(Beta Globin Gene、下の写真上段)の一つの塩基が置き換わり発生する。この変異した塩基をCRISPR-Cas9で元に戻すことで病気を治療できることが示された(下の写真、下段)。これは一つの遺伝子が変異することで発症する病気で「Monogenic Diseases」と呼ばれる。Monogenic Diseasesは9万種類存在し、CRISPR-Cas9でこれらの病気を治療することに期待が寄せられている。

出典: Vence L. Bonham, National Human Genome Research Institute |
デザイナーベビーの誕生
中国で遺伝子工学が極めて速い速度で進んでおり、遺伝子配列のシークエンシング技術で米国を凌駕しようとしている。研究者He Jiankuiはヒト受精卵をCRISPR-Cas9で編集し、世界で初めてデザイナーベビーを誕生させたことは記憶に新しい。これはHIV感染を防ぐための治療とされるが、この手法は重大な問題を含み国際社会に危険性を提起した形となった。
生殖細胞と体細胞
この研究では生殖細胞(Germline Cells、卵子、精子、受精卵)の遺伝子を編集し、編集された遺伝子は子孫に継承される。ヒトの遺伝子が人間の手で書き換えられ、新たな種の誕生に繋がり、重大な倫理問題を含んでいる。これに対し、遺伝性貧血の治療では体細胞(Somatic Cells)の遺伝子が書き換えられた。この変更は当人だけに留まり、子孫に受け継がれることはない。
国際ルールの設定
Doudna教授はSynBioBetaのJohn Cumbersとの対談の中で(先頭の写真)、CRISPR-Cas9による遺伝子編集に関し、国際ルールを制定する必要性を訴えた。CRISPR-Cas9の登場で全ての遺伝子を高精度で書き換えることができるようになり、「もはや研究者が生殖細胞の遺伝子を編集することを誰も止めることができない」と述べた。CRISPR-Cas9は簡単に使えるため、大きな組織でなくてもデザイナーベビーを作ることができる。ロシアはこの技術を使って、強靭で恐れを知らない兵士を生み出す研究を進めているとのレポートもある。北朝鮮やカザフスタンでも同様な研究が進んでいるとのうわさもある。Doudna教授は「遺伝子細胞を書き換える仕組みや書き換えの範囲など、共通のルールについて各国政府の関係者が話し合う時だ」と述べた。
多様性が求められる
Doudna教授は世界が危機に直面している中、これを解決するには「多様性」が重要であるとの考え方を示した。Doudna教授は幼少期をハワイ島で過ごし、多民族が暮らす社会で成長した。「この中で異なる考え方をもつ人と協調するすべを学んできた」と述べ、国際社会という多様性の中で各国が協調できる道を探ることが肝要としている。CRISPR-Cas9を使ったヒト遺伝子の編集で優秀な国民を作り上げることができ、遺伝子工学は国家安全保障と深い関係を持つ。各国の多様な考え方の中で共通項を見つけ、「CRISPR-Cas9が世界に貢献できる仕組みを探求する努力が求められる」と述べた。

出典: Innovative Genomics Institute |
Doudna教授の人柄
Doudna教授はノーベル賞最有力候補で、近年中に受賞するとささやかれている。世界トップの座にあるDoudna教授であるが、人柄は謙虚で、権威をかざすことなく、優しくそしてしっかりと語り掛けるのが印象的であった。CRISPR-Cas9の開発者であるDoudna教授がそれを規制すべきとの主張には重みがある。(上の写真、Doudna教授のが代表を務める遺伝子工学研究所Innovative Genomics Institute)