カテゴリー別アーカイブ: 合成生物学

ゲノム編集技術CRISPRで新型コロナウイルス治療薬を開発、次のコロナのパンデミックに備える

スタンフォード大学は新型コロナウイルス感染症を、ゲノム編集技術CRISPRを使って治療する技法を開発した。この技法は「PAC-MAN」と呼ばれ、CRISPR-Cas13が新型コロナウイルスのRNAを切断し、ウイルスの増殖を防ぐ。この手法は現行の新型コロナウイルスだけでなく、コロナウイルスに幅広く適用でき、次のコロナのパンデミックを防ぐことができると期待されている。

出典: Lei S. Qi et al.

PAC-MANという技法

この研究の内容はライフサイエンス分野の学術雑誌Cellに「Development of CRISPR as an Antiviral Strategy to Combat SARS-CoV-2 and Influenza」として公開された。これはCRISPR-Cas13ベースの治療技術で、PAC-MAN (prophylactic antiviral CRISPR in human cells)と呼ばれる。PAC-MANは、CRISPRが肺に侵入した新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)を検知し、Cas13がこのウイルスのRNAを切断し、ウイルスの増殖を抑える。更に、A型インフルエンザウイルス(influenza A virus)にも有効でウイルスの増殖を抑止する。

CRISPR-Cas13と新型コロナウイルス

PAC-MANは、ビデオゲームのパックマンがドットを食べるように、新型コロナウイルスのRNAをかみ切る(上のグラフィックス)。細胞が新型コロナウイルスに感染すると、ウイルスのRNAがリリースされる。PAC-MANはCRISPR RNA(crRNA)とCas13から構成される。crRNAが細胞に侵入したウイルスのRNAを見つけ、酵素であるCas13がその配列を切断する。これにより、ウイルスのRNAは機能を失い増殖が停止する。

将来のコロナパンデミックに備える

また、この技法を使うと将来のコロナウイルスのパンデミックを抑止できる。具合的には、crRNAを六種類用意すると(下のグラフィックス、右側中段)、コロナウイルスの90%を認識し、Cas13がこのRNA配列を切断する。この六種類のcrRNAを使うと、過去にパンデミックとなったMERS(MERS-CoV)やSARS(SARS-CoV)を抑止できた。また、次のパンデミックはどの種類のコロナウイルスが引き起こすのかは分からないが、90%の確率でこれを抑止できる。

出典: Lei S. Qi et al.  

(上のグラフィックス:円の中心はコロナウイルスの種類、内側の円はPAC-MANが有効なコロナウイルス、外側の円はパンデミックとなったコロナウイルスで赤色の部分が新型コロナウイルスを示す。)

CRISPRのデリバリー手法

この研究ではPAC-MANを新型コロナウイルス患者の肺細胞にどのような手法で送り届けるかも重要なテーマとなる。新型コロナウイルスは肺細胞に感染し増殖するが、PAC-MANをここにデリバリーすることは容易ではない。この研究に関しては、Molecular Foundryの技術が使われた。Molecular Foundryとは国立研究所「Lawrence Berkeley National Laboratory」の組織でライフサイエンス分野のナノテクノロジーの研究を進めている。

出典: Illustration courtesy of R.N. Zuckermann, Lawrence Berkeley National Laboratory

Lipitoidというデリバリー方法

CRISPR医療ではcrRNAとCasのパッケージをどのような手段で細胞にデリバリーするかが課題となる。Molecular Foundryは「Lipitoid」の研究を進めており、ここにPAC-MANを搭載し肺細胞に送り届ける。Lipitoidとは人工的に生成された分子で、DNAとRNAで自律的に生成する。このLipitoidの直径は1ナノメートル(10^-9 メートル)でウイルスほどの大きさのナノ粒子(上のグラフィックス、円形の部分)で、ここにPAC-MANを組み込み(緑色の部分)、それを肺細胞へデリバリーする。

開発スケジュール

実際に、2020年4月、肺の上皮細胞(Epithelial cells)を使って、LipitoidによるPAC-MANデリバリーの試験が実施された。次のステップはニューヨーク大学と共同で、動物実験を実施し、新型コロナウイルスへの効果を検証する。このプロセスが上手くいくと、次は規模を拡大して、臨床試験前の実験を進める。

新しいアプローチ

今すぐにCRISPRで新型コロナウイルス感染症の治療ができるわけではないが、今までにないアプローチでその効果が期待されている。特に、インフルエンザにも有効で、多くの患者を救うことができる。更に、コロナウイルスの種類は数が多く、次のパンデミックが懸念されるなか、CRISPRがこれを防ぐ技術になると期待されている。

ゲノム編集技術CRISPRで新型コロナウイルスを検知、5分で結果が分かり感染対策の切り札として期待される

バイデン次期大統領は政権移行の準備を進め、先週、新型コロナウイルス対策のタスクフォースのメンバーを発表した。就任後はこのチームが司令塔となり、世界最悪とも言われる米国のコロナウイルスと戦うことになる。バイデン次期大統領は、科学と技術を最大限に活用し、都市をロックダウンすることなく、感染を食い止めるとしている。

出典: Melanie Ott et al.

現行のコロナウイルス検知技術

コロナ対策でカギを握るのはウイルスの検知技術で、短時間で正確に判定できる技法が求められている。現在はPCR検査が主流であり、高精度に判定できるものの、結果が出るまでに時間を要す。また、処理量を増やすことが難しく、これらが感染拡大を防げない要因とされる。

CRISPRベースの検査

いま、ゲノム編集技術CRISPRを使った新型コロナウイルス検知技術の開発が進んでいる。ノーベル化学賞を受賞したジェニファー・ダウドナ教授らの研究チームは先月、CRISPRを使った新型コロナウイルス検知技術を発表した。この技法を使うと5分間でウイルスを検知でき、感染拡大を防ぐ切り札になると期待されている。

検査キットの概要

検査キットは専用デバイスとスマホから構成され(上の写真、左側)、判定結果はスマホに表示される(上の写真、右側)。採取した検体をサンプル容器にいれ、それを専用デバイス(箱型の部分)に装着する。ここにレーザー光を照射し、これを専用デバイス上のスマホカメラで読み取る。新型コロナウイルスを検知するとサンプルは緑色に発光し、陽性であることを示す。また、光の強度はウイルスの数を示し、陽性判定だけでなく、検体の中のウイルスの量を把握できる。このキットは病院や会社などで使われ、現場でリアルタイムに感染状況を把握できる。

CRISPRで検知する仕組み

検査キットはCas13aとcrRNAを使い、新型コロナウイルスに特有のRNA配列を検知する(下のグラフィックス)。検査キットにはマーカー(Reporter RNA)が入っており、ウイルスのRNAを検知するとCas13aがその周囲のマーカーを切断する。マーカーが切断されると蛍光物質が放出され、ここにレーザー光線を照射すると発光する。この光を検知することでウイルスの存在を把握する。

出典: Melanie Ott et al.

感染対策の決め手

CRISPRベースの検査キットは既に使われているが、検査結果が出るまに1時間かかり、更なる改良が求められていた。ダウドナ教授らの研究チームはこれを大幅に短縮し、5分で結果を得ることに成功した。また、この方式はウイルスの量が少なくても検知できるとしている。新型コロナウイルスに感染した直後は、ウイルス量が少なく検知が難しいが、この方式はこれを解決した。短時間で高感度でウイルスを検知でき、感染対策の切り札として期待されている。

[米国における新型コロナウイルス検査方法]

新型コロナウイルスの検査の種類

新型コロナウイルスの検査ではPCR検査と抗原検査が普及している。PCR検査はウイルスのRNAの断片を検知することで感染を把握する。抗原検査はウイルスを特徴づける抗原(タンパク質)を検知し感染を把握する。ここにCRISPR検査が加わった。CRISPRベースの検査では、ウイルスを特徴づけるRNAの断片を遺伝子編集の手法で把握する。

PCR検査

ウイルス検査ではPCR検査(RT-PCR、Reverse transcription polymerase chain reaction)が標準手法で、高精度で判定でき幅広く使われている。PCR検査は20年の歴史があり、新型コロナウイルス以外でも標準検査として定着している。一方、PCR検査は特殊機器を備えた施設で実施され、検査結果がでるまでに数日かかる。医療現場で手軽に検査できないことが課題となっている。

高速PCR検査

この問題を解決するため、PCR検査を高速で処理するキットが開発された。これはAbbottが開発した「ID Now」で(下の写真)、アメリカ食品医薬品局はこれを医療機器として認可した。検体を採取して15分ほどで結果がでることから注目を集めた。トランプ大統領が記者会見でID Nowを推奨したことで有名となった。一方、ID Nowは検査精度が高くなく、利用法が難しいことが指摘される。実際に、大統領や高官が相次いでウイルスに感染し、検知精度の限界が明らかになった。

出典: Abbott

抗原検査

抗原検査キットは多くの企業から販売されている。Abbottは「BinaxNOW」というブランドで販売している(下の写真)。特殊な機器は不要で短時間で結果がでるため容易テストとして使われている。抗原検査はPCR検査に比べ精度は低く、また、偽陰性(陽性を陰性と判定)と判定されるケースが多い。

出典: Abbott

CRISPR検査

マサチューセッツ州ケンブリッジに拠点を置く新興企業Sherlock BioSciencesはCRISPRベースの新型コロナウイルス検知キットを開発した。これは「Sherlock CRISPR SARS-CoV-2 Kit」と呼ばれ、アメリカ食品医薬品局が認可した最初の製品となった。この基礎技術はマサチューセッツ工科大学のFeng Zhang教授らにより開発され、技術改良が進んでいる。

出典: Sherlock BioSciences

シリコンバレーでアンチエイジングの研究が白熱、遺伝子解析とAIで若返る

合成生物学の国際会議「SynBioBeta」が開催され、最新の研究成果が発表された。合成生物学とは生物学と情報工学が融合した分野の研究で、遺伝子解析とAIが結び付きブレークスルーが生まれている。その一つがアンチエイジングの研究で、老化を抑止する医療品や製品が生まれている。

出典: One Skin

One Skinという新興企業

SynBioBetaでOne Skin創業者のCarolina Reis Oliveiraがアンチエイジング研究の成果を説明した。One Skinとはサンフランシスコに拠点を置く新興企業で、合成生物学の手法でアンチエイジングの研究を進めている。最初の成果がスキンケアサプリメント「OS-01」(上の写真)で、今日から販売が開始された。これを顔や手の肌につけると、皮膚の寿命(Skinspan)を延ばすことができる。多くのアンチエイジング製品が販売されているが、One Skinは老化した細胞を取り除くことで皮膚を若返らせるアプローチを取る。

老化とは

人は年を取ると、肌にしわができ、関節が痛み、白髪が増える。老化することは自然の摂理で、避けることはできないと考えられてきた。しかし、老化の研究が進み、そのメカニズムが分かり始め、今では老化は病気であると認識されている。このため、シリコンバレーを中心に、老化という病気を治療する研究が進んでいる。

老化のメカニズム

しかし、老化は極めて複雑な生理現象で、その詳細は分かっていない。アメリカ国立衛生研究所によると、老化の原因は九つあり、その一つが「Cellular Senescence」と呼ばれる現象である。これは「細胞の老化」という意味で、細胞が老化し、活性化が止まった状態を指す。この状態の細胞は老化細胞「Senescent Cells」と呼ばれる。人間の細胞は、生まれてから分裂を繰り返し成長するが、年を取るとこの細胞分裂が停止し、これ以上細胞分裂が起こらない状態となる。(下の写真、皮膚の細胞を示したもので、透明な部分が正常な細胞で、青色の部分が老化細胞)。

出典: One Skin

老化の役割

細胞の老化は体を守るための現象で、老化細胞や傷ついた細胞は、免疫系(Immune System)により取り除かれる。免疫系は体内の病原体や遺物を殺滅するほかに、老化細胞を取り除く役割を担っている。老化は古くなった細胞の分裂を停止させる機能で、これらが取り除かれ新たな細胞が生まれ、組織が若返る。

老化が問題となるのは

しかし、老化が問題となるのは、老化細胞が取り除かれないまま体内に蓄積されるためである。加齢とともに免疫系の機能が低下し(Immunosenescent)、老化した細胞が取り除かれないまま体内に蓄積される。古い細胞が増えることで新たな細胞が生まれないだけでなく、周囲の正常な細胞にダメージを与え、これらを老化細胞に変えていく。これにより、ガンや心臓疾患や認知症などを発症する。また、関節炎や骨粗しょう症の原因となる。これが老化の問題点で、老化細胞が取り除かれないまま蓄積することで起こる。

One Skinの手法

One Skinはこの老化細胞を取り除く技術を開発している。肌のアンチエイジングに焦点を当て、肌に蓄積する老化細胞を取り除くことで、皮膚を若返らせる技術を開発した。膨大な数のペプチド(Peptide、アミノ酸で構成された短い分子)を調べ、OS-01というペプチドが老化細胞を取り除く効果があることを発見。研究室での実験でOS-01は皮膚の老化細胞を25%から50%取り除くことができその効果を実証した。また、人体に適用しその効果を確認した。(下の写真、老化した肌(左側)にOS-01を12週間適用すると張りのある肌(右側)となった。)

出典: One Skin

人の老化を止める薬

SynBioBetaでOliveiraは、この研究の最終ゴールは人の老化を抑止する医薬品を開発することであると述べ、そのロードマップを説明した。研究は進行中で、アンチエイジングに効果のあるペプチドOS-01を線虫の一種であるC elegansに適用すると寿命が12%伸びたと、その成果を説明した。次のステップはこれを人間に適用し、老化に起因する病気の治療を目指す。具体的には、皮膚角化疾患(psoriasis)や関節リウマチ(rheumatoid arthritis)の治療薬を開発する計画である。

100歳まで健康に暮らす

シリコンバレーの識者の間で健康寿命の捉え方が変わりつつある。老化の研究が急速に進化しており、100歳まで健康で活躍できると考える人が増えてきた。革新的なアンチエイジング医療の研究が盛んで、健康管理を怠らなければ、我々は新技術の波に乗り、余命が大きく伸びそうだ。「100 is the new 60」という言葉をよく耳にする。これは、これからの100歳は従来の60歳という意味で、100歳まで元気に働ける時代は目の前に迫っている。

[OS-01の開発手法]

遺伝子と細胞年齢

One Skinは生物学と機械学習を駆使しOS-01の開発に成功した。One Skinは、研究室でヒトの肌を培養し、このプラットフォームの上でアンチエイジングの研究を展開。また、機械学習の手法で細胞の年齢を推定するアルゴリズムを開発。遺伝子のマーカーを細胞年齢の指標として使った。このアルゴリズムを使い、開発したペプチドで細胞がどれだけ若返ったかを推定した。(下の写真、アルゴリズムの結果を示し、縦軸が細胞の年齢で横軸がその推定年齢。)

出典: One Skin

ペプチドの生成

ペプチドのライブラリーから微生物を殺す機能を持つペプチドを検索。そこから、有望なペプチドを絞り込み、それを参照して、老化細胞を殺滅する機能を持つペプチドを人工的に生成した。生成したペプチドは、通常の細胞には影響はなく、老化細胞だけを殺滅する機能を持つ。このペプチドが「OS-01」で、アンチエイジングに効果があることを実験室で(In Vitro)確認した。更に、実際に人体に適用して(In Vivo)、その効果を確認した。(下の写真、左側が老化した皮膚で、右側はOS-01を適用して若返った皮膚、細胞が密になりカラム状の構造を取る)

出典: One Skin

ゲノム編集技術「CRISPR-Cas9」の開発者がノーベル化学賞を受賞、ライフサイエンス革命が始まる

今年のノーベル化学賞はゲノム編集技術「CRISPR-Cas9」を開発した二人の女性研究者が受賞した(下の写真)。スェーデン王立科学アカデミーは、受賞理由は遺伝子編集技法の開発とし、CRISPR-Cas9を「遺伝子を切るハサミ(Genetic scissors)」と表現している。この技法を使うことで、ヒトや動物や植物の遺伝子を容易に書き換えることができ、ライフサイエンスの分野で革新的なインパクトがあると評価している。

出典: Nobel Media AB 2020

受賞内容

ノーベル化学賞受賞の理由は遺伝子の編集技術「CRISPR-Cas9」の開発(for the development of a method for genome editing)。受賞者はマックスプランク感染生物学研究所(Max Planck Unit for the Science of Pathogens)のEmmanuelle Charpentierとカリフォルニア大学バークレー校(University of California, Berkeley)のJennifer Doudna。

受賞理由

CRISPR-Cas9とはバクテリアなど原核生物(Prokaryote)が持つ免疫機構で、その存在は早くから知られていた。Doudna教授らは、これを植物や動物の細胞に適用し、遺伝子を切断・編集する技法を開発し、これが今回の受賞に繋がった。バクテリアが持つ防衛機能を動植物の遺伝子編集に適用する発想と技法が評価された。

CRISPR-Cas9の機能

CRISPR-Cas9は遺伝子を切るハサミと表現されるように、遺伝子を切断する機能を持つ。切断された遺伝子は自己修復する機能があり、再び繋がるが、その際に元の配列とは異なる配列で繋がる。このため、この遺伝子が機能しなくなる。また、接続した部分に別の配列を付加すると、遺伝子の配列を編集できる。これにより、新たな機能を持つ遺伝子を作り出すことができる。つまり、CRISPR-Cas9で特定の遺伝子の機能を止め、また、新たな遺伝子を生成できる。

出典: The Royal Swedish Academy of Sciences

ライフサイエンス革命

CRISPR-Cas9により全ての生き物の遺伝子を自在に編集でき、ライフサイエンスに革命をもたらす。農水産物物をCRISPR-Cas9で改良し、乾燥に耐性のあるトウモロコシや血圧を下げるトマトの開発が進んでいる。また、家畜の遺伝子を編集し、雄雌を産み分ける技術の開発が進んでいる。また、これを医療に応用し、ガン治療(CAR T-cell Therapy)や遺伝性貧血(鎌状赤血球症、Sickle cell disease)の治療で効果をあげている。一方、ヒトの受精卵をCRISPR-Cas9で編集し、他人より優れた能力を持つ赤ちゃん「CRISPR Baby」を生むことに関してはコンセンサスは無く、各国が独自で研究を進め、世界で混乱が広がっている。

牛の受精卵の遺伝子を編集

このような状況の中、今年7月、カリフォルニア大学デービス校(University of California, Davis)は牛の受精卵遺伝子をCRISPR-Cas9で編集し、雄の牛を生ませることに成功した(下の写真、生まれた雄の子牛、名前はCosmo)。この研究では牛の受精卵の17号染色体(Chromosome 17)に雄の牛を生成する遺伝子(SRY Gene)を挿入した。この牛が育ち、この牛で繁殖させると75%の確率で雄の牛が生まれる。因みに、雄の牛を生ませる理由は一頭当たりの肉の量が牝牛に比べて多いため。ただし、米国においては遺伝子編集で誕生した食肉を販売することはアメリカ食品医薬品局(FDA)の認可が必要で、この子牛の肉を販売することはできない。遺伝子編集された食肉が安全であることを証明する必要性の他に、この研究は動物の生殖細胞の遺伝子を編集することに対し、倫理的な課題も提示している。

出典: University of California, Davis

ヒト受精卵の遺伝子編集

CRISPR-Cas9をヒトの受精卵に適用し遺伝子を書き換えることに関しては社会の理解が得られていない。しかし、2018年、中国の研究者He Jiankuiはヒト受精卵をCRISPR-Cas9で編集し、HIVに感染しない双子の女の子を作り出した。この研究は、欧米の研究者コミュニティ―と交流を持たず、中国国内に閉じて実施された。その結果が学会で報告され、世界は衝撃を受けた。

CRISPR-Cas9の危険性と国際規制

CRISPR-Cas9でヒト受精卵の遺伝子を編集することが危険な理由は、その技術が未成熟なことにある。CRISPR-Cas9は生まれたての技術で常に正確に遺伝子を編集できるわけではない。意図しない個所の遺伝子を書き換えるケース(off-target edits)が少なくない。上述のケースでも対象とする遺伝子(CCR5 Gene、HIV発症に関与する遺伝子)だけでなく、その他の遺伝子も書き換えられたとされる。未熟な技術でヒト受精卵の編集をすることの危険性が指摘されるなかで、各国でこの研究が進んでおり、国際的な規制やルールの制定が求められている。しかし、CRISPR-Cas9で優秀な国民を生み出すことは国の繁栄や安全保障と深くかかわり、世界共通の規制を制定することは容易なことではない。

選ばれなかった研究者

Charpentier博士とDoudna教授が受賞したが、CRISPR-Cas9開発では多くの研究者が関与している。その一人がマサチューセッツ工科大学Broad InstituteのFeng Zhang教授で、ノーベル賞候補とされてきたが、受賞には至らなかった。Zhang教授はCRISPR-Cas9を改良し、ヒトやマウスの遺伝子を編集することに成功した。Zhang教授が受賞しなかったことが最大のサプライズとなった。

CRISPR-Cas9の特許を巡る争い

Zhang博士が属するBroad InstituteとDoudna教授が属するUC BerkeleyはCRISPR-Cas9の特許について法廷で争っている。巨大な富を生み出すCRISPR-Cas9の特許は誰に属すのか審理が続いている。先月、米国特許裁判所(US Patent Trial and Appeal Board)は、Broad Instituteに有利な意見を公開した。

出典: Science

Doudna教授らは試験管の中でCRISPR-Cas9が遺伝子を切断できることを示し(上の写真)、世界の研究者がCRISPR-Cas9に着目する切っ掛けとなった。一方、その後、Zhang教授らはCRISPR-Cas9を改良し、ヒトやマウスなどの遺伝子を編集することに成功した。このため、裁判所は、真核生物(Eukaryotes、ヒトや動物や植物など)の遺伝子を編集する特許はBroad Instituteにあるとの見解を示した。つまり、Doudna教授らはDNA切断の基礎機能の特許を持つが、これを動物に適用する特許はZhang教授らに属すとの判断を示した。

ノーベル委員会の判断

法廷闘争が続く中で、ノーベル委員会はZhang教授を加えないでDoudna教授らを選考した。ノーベル賞枠は最大三人であり敢えてDoudna教授らを選んだ形となった。発表文の中に、Doudna教授らを選んだ理由を、CRISPR-Cas9を使えば「動物や植物や微生物のDNAを書き換えることができる」との記述があり、試験管で遺伝子を切断できれば、これを動物などに応用できることは自明であるとも解釈できる。

Jennifer Doudna talks during a press conference at UC Berkeley in Berkeley Calif. on Wednesday, Oct. 7, 2020. Doudna received the Nobel Prize in Chemistry for her work with CRISPR Cas9.
出典: UC Berkeley News

受賞の言葉

UC Berkeleyは受賞が決まったその朝にDoudna教授にインタビューし、その様子をビデオで配信した(上の写真)。Doudna教授は、受賞はバクテリアの免疫機構を遺伝子編集に適用したことが評価されたとの見解を示し、「イノベーションは思ってもみなかった方向から訪れる」と述べた。自然が長い年月にわたり培ってきた機能は人間の想像力を遥かに上回るという意味となる。

[技術情報: CRISPR-Cas9の仕組み]

バクテリアが備えているCRISPR-Cas9

バクテリアは体内に侵入するウイルスをCRISPR-Cas9で防御する。CRISPR-Cas9はバクテリアが持つウイルスに対する免疫機構となる(下のグラフィックス)。

  1. バクテリア内部に放出されたウイルスのDNA(VIRAL DNA)をCRISPR(CRISPR DNA)に保管する。VIRAL DNA間はREPEATED SEQUENCEという配列で結ばれる。CRISPRは過去に感染したウイルスDNAの保管倉庫となる。
  2. CRISPR DNAはそのコピーCRISPR RNAを生成する。
  3. 目印の役割を果たすtracrRNAがREPEATED SEQUENCEと結合し、ハサミの機能を持つCas9がCRISPR RNAに結合する。
  4. CRISPR RNAは侵入したウイルスのDNAと配列を比較し、それが同じであればCas9がウイルスのDNAを切断する。つまり、CRISPR-Cas9は過去に侵入したウイルスのDNAを記憶しており、再度侵入したときにそれを切断する。
出典: The Royal Swedish Academy of Sciences

CRISPR-Cas9で動物や植物の遺伝子を編集する方法

CRISPR-Cas9はハサミの機能を持ちDNAを切断する。その際に、研究者がCRISPR RNAを生成する。これはガイドの役割を持ち切断する箇所に導く。そしてCas9がDNAを切断する。 (下のグラフィックス)。

A. 切断した個所は細胞により修復されるが、前とは異なる塩基対が挿入され、その結果その遺伝子は機能しなくなる。

B. 切断した個所に新たな塩基対を加えると、新たな遺伝子を生成できる。

つまり、CRISPR-Cas9で、特定の遺伝子の機能を停止させる操作と、新たな遺伝子を生成する操作ができる。

出典: The Royal Swedish Academy of Sciences

CRISPRの発見と名前の由来

CRISPRは遺伝子の一部で、バクテリアなどに存在し、この構造は日本の石野良純博士により1987年に大腸菌の中で発見された。しかし、当時はその役割について分かっていなかった。スペインの微生物学者Francisco Mojica博士は、1993年、古細菌(archaea)の中でこの構造を見つけ、2005年に、これは免疫システムであるとの仮説を発表。Mojica博士はこの構造をclustered regularly interspaced short palindromic repeats = CRISPRと命名。

(下のグラフィックス:バクテリア内部のCRISPRで、同じ配列(黒色の部分、Repeat)が規則正しく繰り返される。しかも、この部分の配列は回文構造(palindromic、左から読んでも右から読んでも同じ配列)をしている。CRISPRは回文構造の配列が繰り返されるという意味を持つ。)

出典: The Royal Swedish Academy of Sciences

ゲノム編集技術CRISPRで合成生物学が急成長、同時にデザイナーベビー開発競争への国際規制が求められる

先週、合成生物学の国際会議「SynBioBeta」がオンラインで開催され、大学や企業の研究者が対談形式で研究成果を議論した。遺伝子工学とAIが結び付き、医療、食料、素材でブレークスルーが起こっている。会議ではCRISPR開発者Jennifer Doudna教授(下の写真、左側)が遺伝子編集技術による成果と課題を解説した。ヒト遺伝子の書き換えが世界で進み、研究開発に関する国際ルールを制定する必要性を説いた。

出典: SynBioBeta

合成生物学とは

合成生物学(Synthetic Biology)とは人工的に生物の一部を生成し、また、それを改良する技術を指す。多くの研究分野から構成され、生物工学(Bio Technology)や遺伝子工学(Genetic Engineering)がその中心となる。特に、遺伝子工学においては、遺伝子配列を読み取る技術(DNA Sequencing)のコストが劇的に下がり、また、遺伝子配列を編集する技術CRISPR-Cas9の登場で、合成生物学が急速に進化している。更に、遺伝子工学とAI・機械学習が結び付き様々なブレークスルーが生まれている。

CRISPR-Cas9とは

CRISPR-Cas9とは遺伝子配列を高精度に編集する技術を指す。従来から遺伝子編集技術(ZFNやTALENなど)が使われてきたが、CRISPR-Cas9は容易に遺伝子を編集できることが最大の特徴で、瞬く間に世界で利用が広がった。CRISPR-Cas9を使った編集技術はカリフォルニア大学バークレー校(University of California Berkeley)のJennifer Doudna教授らにより開発された。

CRISPRとCas9

CRISPRはCas9と連動して稼働する。CRISPRは遺伝子の一部で、バクテリアなどに存在する。この構造は石野良純博士により1987年に大腸菌の中で発見された。一方、Cas-9はたんぱく質で、遺伝子を切断する機能を持つ。CRISPRとCas9は連携して働き、バクテリアの中に侵入したウイルスを見つけ、その遺伝子を切断する機能を持つ。つまり、CRISPRとCas9はバクテリアが備えている免疫機構で、ウイルスを殺し感染拡大を阻止する。

出典: Innovative Genomics Institute  

CRISPR-Cas9を遺伝子編集に応用

Doudna教授らは2012年、CRISPR-Cas9を使って遺伝子を編集する手法を考案した。これは「CRISPR Gene Editing」と呼ばれ、生物が備えている免疫機構を遺伝子編集に適用するもので、簡単な操作で遺伝子配列を編集でき、医療や生物学の分野で研究の必須ツールとなっている。 (上の写真、CRISPR-Cas9の構造。黄色のらせん構造がCRISPR、緑色の物質がCas9、水色のらせん構造が編集対象の遺伝子。)

CRISPR-Cas9で遺伝子を編集する仕組み

CRISPRは編集する箇所をピンポイントで見つけ、Cas9がその部分を切断する(下のグラフィックス)。切断した個所は細胞により修復されるが、前とは異なる塩基対が挿入され、その結果その遺伝子は機能しなくなる(左側)。一方、切断した個所に新たな塩基対を加えると、新たな遺伝子を生成できる(右側)。つまり、CRISPR-Cas9は特定の遺伝子の機能を停止させる操作と、新たな遺伝子を生成する操作ができる。

出典: Innovative Genomics Institute  

農業分野への応用

CRISPR-Cas9による遺伝子編集は幅広い分野で使われているが、農業分野で新しい作物が開発されている。従来から作物の遺伝子組み替えが実施されているが、CRISPR-Cas9を使うとこれを簡単な操作で高精度で実施できる。地球温暖化に耐性のあるトウモロコシの栽培などが始まっている。また、伝染病を介在する蚊の遺伝子を組み替える試みも進んでいる。蚊の遺伝子を別の遺伝子で置き換え繁殖機能を抑止し、マラリアやデング熱の感染拡大を防ぐ。

難病の治療に成功

Doudna教授はCRISPR-Cas9をヒト遺伝子の編集に適用することで難病を治療する研究に期待している。スタンフォード大学医学部(Stanford Medicine)はCRISPR-Cas9で遺伝性貧血(鎌状赤血球症、Sickle cell disease)の治療に成功した。この病気は赤血球が三日月状に変形し、酸素の運搬機能が低下し、貧血を引き起こし、多くの子供が成人になる前に死亡する。これは遺伝子(Beta Globin Gene、下の写真上段)の一つの塩基が置き換わり発生する。この変異した塩基をCRISPR-Cas9で元に戻すことで病気を治療できることが示された(下の写真、下段)。これは一つの遺伝子が変異することで発症する病気で「Monogenic Diseases」と呼ばれる。Monogenic Diseasesは9万種類存在し、CRISPR-Cas9でこれらの病気を治療することに期待が寄せられている。

出典: Vence L. Bonham, National Human Genome Research Institute  

デザイナーベビーの誕生

中国で遺伝子工学が極めて速い速度で進んでおり、遺伝子配列のシークエンシング技術で米国を凌駕しようとしている。研究者He Jiankuiはヒト受精卵をCRISPR-Cas9で編集し、世界で初めてデザイナーベビーを誕生させたことは記憶に新しい。これはHIV感染を防ぐための治療とされるが、この手法は重大な問題を含み国際社会に危険性を提起した形となった。

生殖細胞と体細胞

この研究では生殖細胞(Germline Cells、卵子、精子、受精卵)の遺伝子を編集し、編集された遺伝子は子孫に継承される。ヒトの遺伝子が人間の手で書き換えられ、新たな種の誕生に繋がり、重大な倫理問題を含んでいる。これに対し、遺伝性貧血の治療では体細胞(Somatic Cells)の遺伝子が書き換えられた。この変更は当人だけに留まり、子孫に受け継がれることはない。

国際ルールの設定

Doudna教授はSynBioBetaのJohn Cumbersとの対談の中で(先頭の写真)、CRISPR-Cas9による遺伝子編集に関し、国際ルールを制定する必要性を訴えた。CRISPR-Cas9の登場で全ての遺伝子を高精度で書き換えることができるようになり、「もはや研究者が生殖細胞の遺伝子を編集することを誰も止めることができない」と述べた。CRISPR-Cas9は簡単に使えるため、大きな組織でなくてもデザイナーベビーを作ることができる。ロシアはこの技術を使って、強靭で恐れを知らない兵士を生み出す研究を進めているとのレポートもある。北朝鮮やカザフスタンでも同様な研究が進んでいるとのうわさもある。Doudna教授は「遺伝子細胞を書き換える仕組みや書き換えの範囲など、共通のルールについて各国政府の関係者が話し合う時だ」と述べた。

多様性が求められる

Doudna教授は世界が危機に直面している中、これを解決するには「多様性」が重要であるとの考え方を示した。Doudna教授は幼少期をハワイ島で過ごし、多民族が暮らす社会で成長した。「この中で異なる考え方をもつ人と協調するすべを学んできた」と述べ、国際社会という多様性の中で各国が協調できる道を探ることが肝要としている。CRISPR-Cas9を使ったヒト遺伝子の編集で優秀な国民を作り上げることができ、遺伝子工学は国家安全保障と深い関係を持つ。各国の多様な考え方の中で共通項を見つけ、「CRISPR-Cas9が世界に貢献できる仕組みを探求する努力が求められる」と述べた。

出典: Innovative Genomics Institute  

Doudna教授の人柄

Doudna教授はノーベル賞最有力候補で、近年中に受賞するとささやかれている。世界トップの座にあるDoudna教授であるが、人柄は謙虚で、権威をかざすことなく、優しくそしてしっかりと語り掛けるのが印象的であった。CRISPR-Cas9の開発者であるDoudna教授がそれを規制すべきとの主張には重みがある。(上の写真、Doudna教授のが代表を務める遺伝子工学研究所Innovative Genomics Institute)