カテゴリー別アーカイブ: 量子コンピューター

ノーベル物理学賞は「量子もつれ」の研究者が受賞、奇怪な現象を実験により確認したことが評価される、量子情報科学の発展を支える

2022年のノーベル物理学賞は「量子もつれ(Quantum Entanglement)」という現象を実験で証明した研究者三人に授与された。量子もつれとは、二つの量子(物理特性の最小単位)が離れていても、両者の動きは連動しているという現象を指す(下のグラフィックス)。二つの量子が遠く離れていても、この現象が起こり、光の速度を超えて情報が伝達することになる。アインシュタインはこれを「奇怪な動き」と呼び、量子物理学は不完全な体系であるとの論文を公開した。

出典: The Royal Swedish Academy of Sciences

三人の受賞者

アインシュタインを中心に議論が続く中、三人の科学者は実験により、量子もつれという現象が起こっていることを証明した。受賞者はアメリカのジョン・クラウザー(John Clauser)博士、フランスのアラン・アスペ (Alain Aspect)教授、オーストリアのアントン・ツァイリンガー(Anton Zeilinger)教授(下の写真)。クラウザー博士は量子もつれを実験で証明し、アスペ教授は実験方法を改良し、ツァイリンガー教授は量子もつれを情報工学に応用し、「量子テレポーテーション(Quantum Teleportation)」と呼ばれる送信技術を考案した。

出典: The Royal Swedish Academy of Sciences

受賞の意義

アインシュタインは量子もつれを「奇怪な動き(spooky action at a distance)」と呼び、量子力学は未完の体系で、この理論は正しくないとする論文「EPR Paradox」を他の研究者と共に1935年に発表した。これ以来、量子もつれについて議論が続いてきたが、受賞者はこれを実験で証明し、この奇怪な現象が起きていることを示した。直感では理解できない物理現象であるが、量子もつれは量子コンピュータや量子通信の基礎技術として幅広く使われており、ノーベル賞の選考委員会は、この実験が量子情報科学の発展に寄与したことを評価した。

量子もつれとは

量子もつれとは、二つの量子が連携した状態で、極めて特異な動きをする性質を指す。量子はランダムに動くが、二つの量子が量子もつれの状態となると、その挙動が同期する。例えば光の最小単位である光子(Photon)が、量子もつれの状態になると、二つの光子が同期して動く。一つの光子が縦方向に偏向すると、他の光子も同じ方向に偏向する。まるで二つの量子が見えない糸で繋がっているかのような挙動を示す(先頭のグラフィックス)。

隠れた変数理論

量子もつれは奇怪な挙動で、これを説明するために別の理論が提唱された。これは「隠れた変数理論(Hidden Variables)」と呼ばれ、この奇怪な現象の背後には、分かっていない変数があるという考え方。量子もつれを、実験者が観測できない変数を導入して、この挙動を説明する理論となる。スウェーデン王立科学アカデミー(Royal Swedish Academy of Sciences)は、量子もつれという現象を、ボールを投げるマシンで説明している(下のグラフィックス)。マシンには白と黒のボールが入っており、Bob(右の人物)が黒色のボールを受け取ると、Alice(左の人物)は白色のボールを受け取ったことが分かる。隠れた変数は「色」で、量子もつれには「色」という変数が隠れており、これを観測できていないという理論。

出典: The Royal Swedish Academy of Sciences

量子力学の理論

これに対して量子力学(Quantum Mechanics)では、マシンに入っているボールの色は白と黒が混ざった灰色で、ボールを受け取った時点で初めて、その色がランダムに白色または黒色になるという理論(下のグラフィックス)。Bobがボールを受け取ると、その時点でボールは黒色であることが分かる。この結果、Aliceは白色のボールを受けっとったことが分かる。

出典: The Royal Swedish Academy of Sciences

ベルの不等式

二つの理論が議論される中、両者の理論のどちらが正しいかを実験で証明することができるとの考え方が提唱された。これは英国の科学者ジョン・スチュワート・ベル(John Stewart Bell)が1964 年に、提唱したもので、「ベルの不等式(Bell Inequalities)」と呼ばれている。隠れた変数理論では、実験結果が特定の値(2)を超えないというもので、反対に、実験でこの値を超えると、量子力学の理論が正しいことが示される。

ジョン・クラウザーの実験

ジョン・クラウザーは、ベルの不等式の理論に基づき、量子もつれ証明するための実験を行った。実験では量子として、光の最小単位である光子(Photon)を使った。カルシウムの原子に特定波長の光を照射すると、二つの光子を量子もつれの状態にすることができる。二つの光子を二つのセンサーで偏光の方向を計測する(下のグラフィックス)。計測を重ねることで、実験結果はベルの不等式の条件に反することが分かり、量子力学が正しいことが実証された。

出典: The Royal Swedish Academy of Sciences

アラン・アスペの実験

その後、アラン・アスペはクラウザーの実験精度を高め、量子力学の理論が正しいことを確認した。アスペは量子もつれの光子を高速で生成する技術を開発し、また、センサーの設定を変えることで、システムは事前に結果に関する情報を得ていないことを証明した(下のグラフィックス)。

出典: The Royal Swedish Academy of Sciences

アントン・ツァイリンガーの研究

アントン・ツァイリンガーは量子もつれを応用した情報処理技術を開発した。これは「量子テレポーテーション(Quantum Teleportation)」と呼ばれ、量子の情報を遠隔地に送信する技術である。これが今日の量子通信技術や量子セキュリティ技術で使われている。

EPRパラドックス

アインシュタイン(Albert Einstein)は、量子もつれは起こりえない事象だとして、同僚の研究者ボリス・ポドリスキー(Boris Podolsky)とネイサン・ローゼン(Nathan Rosen)と共に、この現象を検証した。1935年、検証結果を発表し、量子力学は現実を記述するには完成された体系ではない、との解釈を示した。この考え方は三人のイニシャルを取って「EPR Paradox」と呼ばれている。アインシュタインは、量子力学は自然界の現象を完全に記述するものではなく、統合した理論があるとの考え方を示した。

クラウザー博士の人となり

クラウザー博士は、カリフォルニア大学バークレー校(University of California, Berkeley)で長年にわたり研究に従事し、現在は、サンフランシスコ郊外のウォールナットクリークで活動を続けている(下の写真)。地元テレビ局のインタビューで、実験開始のきっかけを明らかにした。クラウザー教授は、まず、ジョン・スチュワート・ベルに連絡し、ベルの不等式が破られていないことを確認し、実験に着手した。その当時、実験は「アインシュタインの理論を覆す無謀な挑戦」といわれ、実験で量子もつれを実証できた時は「有罪判決から解放された気分であった」と述べた。無名の研究者が歴史上の人物に挑戦した構図となった。

出典: Terry Chea / Associated Press

量子情報科学の基礎

量子もつれを実験で実証したことは、現在開発が進んでいる量子情報科学へ道筋をつけたことを意味する。量子もつれは、量子計算、量子通信、量子ストレージなどに応用され、特に、ハッキングできない安全な通信技術として社会に貢献している。

【参考情報:量子コンピュータで実行すると】

量子もつれ

量子コンピュータで量子もつれを生成し、その結果を出力すると、その挙動をビジュアルに理解できる(下のグラフィックス)。これは量子プログラム開発環境「Qiskit」を使ったもので、量子コンピュータのゲート操作(上段)とその結果が表示(下段)される。これはQubit[0]とQubit[1]に対するゲート操作で、二つのQubitを量子もつれにし、その結果が球体「Q-sphere」(下段右側)に示されている。演算によりQubit[0]とQubit[1]のスピンの方向はどちらも下向き|11>であることを示している。この演算を繰り返し実行すると、Qubit[0]とQubit[1]のスピンの方向はどちらも上向き|00>である確率が50%で、どちらも下向き|11>である確率が50%となる(下段左側のグラフ)。つまり、量子もつれは、Qubitのスピンの向きは、常に同じ方向であることを示している。

出典: IBM

量子テレポーテーション

量子もつれを応用した技術が量子テレポーテーションで、ある場所から別の場所に情報を送信するアルゴリズムとなる。SF映画に登場するテレポーテーションは人や物が移動するが、量子テレポーテーションでは情報(Qubitの状態)を遠く離れた場所に移動させる技術となる。量子テレポーテーションは量子もつれを応用した技法で、量子コンピュータでこの現象を実行できる(下のグラフィックス)。これは量子テレポーテーションのゲート操作で、三つのQubit(q0, q1, q2)を使う。処理は左から右側に進み、ゲート操作を実行すると、q0の情報がq2にテレポーテーションする。ゲート操作でq1とq2が量子もつれとなる。量子テレポーテーションは量子通信技術に応用され、ハッキングできないセキュアな通信として使われている。

出典: IBM

IBMは大規模な量子コンピュータを開発、100万Qubit構成でエラー補正機構を備え最初の商用機となる

量子コンピュータの国際会議「Q2B」(#Q2B20)が開催され、IBMは研究開発の最新状況を公表した。2023年には新アーキテクチャに基づく量子コンピュータを投入し、現行スパコンの性能を遥かに超える。更に、このモデルをエンハンスし、最終的には100万Qubitを搭載する大規模システムを開発する。このシステムはエラー補正機構を搭載し大規模アプリケーションを稼働させることができる。この時点で量子コンピュータが完成し本格的な普及が始まることになる。

出典: IBM

開発ロードマップ

国際会議でIBMの企業提携責任者Anthony Annunziataが量子コンピュータの開発状況とアルゴリズム研究の最新状況を説明した。IBMは量子コンピュータ開発のロードマップを発表しており(下のグラフィックス)、100万Qubitを搭載するシステムの開発を進めている(下のグラフィックス、右端のモデル)。この量子コンピュータはエラー補正機構(Error Correction)を搭載しており、大規模なアプリケーションを稼働させることができる。

出典: IBM

量子プロセッサ開発状況

このゴールに向けて量子プロセッサの開発が進んでいる。現在は65Qubit構成のプロセッサ「Hummingbird」が稼働しているが、今年は127Qubit構成のプロセッサ「Eagle」が稼働する。更に、2022年には433Qubit構成のプロセッサ「Osprey」が登場する。世代ごとに技術改良が進み、小型化でエラー率の低いプロセッサが生まれる。

量子プロセッサ「Condor」

2023年には1,121Qubit構成のプロセッサ「Condor」(下の写真、Qubitがメッシュ状に結合される)が投入される。このモデルが大きなマイルストーンとなり、量子コンピュータが現行スパコンの性能を遥かに上回るポイント「Quantum Advantage」に到達する。このプロセッサは大型冷却装置(dilution refrigerator、先頭の写真)に格納され稼働する。これは「Goldeneye」と呼ばれ世界最大規模の冷却装置となる。

出典: IBM

100万Qubitマシン

100万Qubit構成の量子コンピュータはCondorがベースとなり、このプロセッサを数多く結合して構成する。具体的には、多数の大型冷却装置を高速通信(Intranets)で結び、単一の量子コンピュータを構成する。100万Qubitモデルは現行コンピュータのようにエラー補正機構を備えており、プログラムはエラー無く正常に稼働する。このため、大規模なアプリケーションを稼働させることができ、金融、化学、AIの分野で大きなブレークスルーがあると期待される。

NISQモデル

因みに、現在稼働している量子コンピュータはエラーを補正する機構は搭載しておらず、大規模な演算を実行することは難しい。この種類の量子コンピュータは「Noisy Intermediate-Scale Quantum (NISQ)」と呼ばれ、ノイズが高く(エラー率が高く)、中規模構成(50から100Qubit構成)のシステムとなる。大規模なアプリケーションを稼働させるためにはエラー補正機構が必須となる。

金融分野:JPMorgan Chase

IBMはハードウェアの開発と並行して企業連携を強化している。このプログラムは「IBM Quantum Network」と呼ばれ、IBMはパートナ企業と量子アルゴリズムの共同開発を進めている。金融分野では、JPMorgan Chaseは量子コンピュータでリスク解析やポートフォリオ最適化の研究を進めている。金融アプリケーションは量子コンピュータと相性が良く、最初にQuantum Advantageに到達すると見られている。

エネルギー分野:ExxonMobil

エネルギー分野ではExxonMobilと共同研究を進めている。ExxonMobilは量子コンピュータを使ったシミュレーションで新たなマテリアルを開発する。地球温暖化対策として二酸化炭素回収(Carbon Capture)のための新素材を開発している。(下の写真、IBMとExxonMobilの研究者は共同で量子熱力学(Quantum thermodynamics)の研究を進めている。)

出典: IBM

航空分野:Boeing

航空分野ではBoeingがIBMの量子コンピュータクラウド「IBM Quantum Experience」を使って航空機の開発を進めている。特に、機体に採用する新素材の評価や試験を量子コンピュータで実行する。現在は実験を通じてこのプロセスを実行しているが、これを量子コンピュータでシミュレーションすることで開発期間を大幅に短縮できると期待している。

開発は着実に進む

世界の主要企業は量子コンピュータを使ってアルゴリズム開発を進めている。量子コンピュータ導入に向けた準備が必要であるが、本当にシステムが稼働し性能が出るのかについて疑問を抱いている企業は少なくない。このため、IBMは敢えて量子コンピュータのロードマップを公表し、企業の先行投資を保証する形となった。IBMの説明を聞くと、量子コンピュータはハイプではなく、システム完成への道のりが見え、開発が着実に進んでいるとの印象を受けた。

銀行は量子コンピュータの導入に積極的、JPMorganは量子アルゴリズムと量子通信の研究を進める

量子コンピュータの国際会議「Q2B」(#Q2B20)が開催され、インダストリー分科会で主要企業から量子コンピュータ導入準備状況が報告された。その中で大手銀行JPMorgan Chaseは量子コンピュータにおけるアルゴリズムとセキュリティに関する研究成果を発表した。量子コンピュータは金融アプリケーションとの相性が良く、商用機が出荷されると、銀行が最初のユーザになるとの見方が示された。

出典: JPMorgan Chase

JPMorgan研究所

JPMorganの研究開発部門の責任者Marco Pistoiaが研究概要を説明した。JPMorganは先進技術研究「Future Lab for Applied Research and Engineering(FLARE)」で量子技術の研究を進めている。FLAREのミッションは先進技術を理解し、それをビジネスに応用することで、研究対象は量子コンピュータの他に、クラウド・ネットワーキング、AR/VR、IoTなどがある。この中で、量子コンピュータを最重要テーマとし、金融アプリケーションやセキュリティの研究を進めている。

量子アルゴリズム開発

ここで金融アプリケーションを量子コンピュータで稼働させるためのアルゴリズム開発が進んでいる。金融アプリケーションは量子コンピュータとの相性が良く、量子コンピュータがスパコンを凌駕する「Quantum Advantage」に最初に到達すると期待されている。

量子アルゴリズムの種類

研究対象の金融アプリケーションは三つに分類でき、それぞれ、モンテカルロ技法(Monte Carlo Method)、ポートフォリオ最適化(Portfolio Optimization)、機械学習(Machine Learning)となる。これらのアプリケーションは量子アルゴリズムで構成され、量子コンピュータで実行する。金融業務の多くは量子コンピュータにより処理速度が大きく上がると期待されており、その検証や必要なリソースの規模(Qubitの数やエラー発生率など)に関する研究が進められている。

出典: IBM

モンテカルロ法とは

金融アプリケーションの中で一番期待されているのがモンテカルロ法で、量子コンピュータにより大幅なスピードアップが可能となる。モンテカルロ法とは乱数を用いたシミュレーションや数値計算で、数値モデルを生成し、乱数を使って計算し、解を推定する手法を指す。モンテカルロ法は汎用的な手法で、社会の幅広い分野で使われている。

オプション価格計算

金融分野ではオプション価格(Option Pricing)やリスク解析(Risk Analysis)にモンテカルロ法を適用する。オプション価格とは、複雑な条件のもと、将来価格を計算する技法で、現行手法では数多くのパターンを実行する必要があり処理時間が長くなる。一方、量子コンピュータでは少ない事例で価格を計算でき、大きなスピードアップが期待されている。

NISQタイプの量子コンピュータ

しかし、現在の量子コンピュータはNISQと呼ばれるタイプで、エラー発生率が高く、大規模な計算を実行することはできない。このため、JPMorganはNISQ向けのモンテカルロ法のアルゴリズムの研究を進めている。不安定なシステムで高速にアルゴリズムを実行できる技法の開発が進められている。将来、エラー補正機構を備えた大型量子コンピュータが登場すると、ここで規模の大きなアプリケーションを実行することを計画している。

出典: National Institute of Standards and Technology

セキュリティが破られる

JPMorganはセキュリティの研究を進めていることを明らかにした。大型の量子コンピュータが登場すると現行のセキュリティが破られることは早くから指摘されていたが、その対策が取られてこなかった。しかし、量子コンピュータ開発のペースが予想外に早く、量子技術に耐性のあるアルゴリズム開発が喫緊の課題となってきた。

量子コンピュータに耐性のある暗号化技術

米国政府は国立標準技術研究所(National Institute of Standards and Technology, NIST)を中心に量子コンピュータに耐性のある暗号化技術(Post-Quantum Cryptography)の開発を進めている。このプログラムは2016年12月に始まり、コンペティションの形式で量子アルゴリズムの開発が進んでいる。69のアルゴリズムが提案され、現在は15に絞り込まれ、近く最終判断が下される(上の写真)。最終選考されたアルゴリズムが米国の標準技術となり一般に公示される。企業はこのセキュリティ技術を導入して、量子コンピュータの脅威に備える。

導入に向けた準備

量子コンピュータに耐性のあるアルゴリズムが制定されるのを前に、JPMorganは社内で準備作業をすすめていることを明らかにした。セキュリティ標準技術が決まると、JPMorganは社内のデータをこのアルゴリズムで暗号化する。そのための準備作業として、どのデータを新規基準に従って暗号化すべきかの選定作業を進めている。長期保存が必要なデータから暗号化を進め、量子コンピュータが登場しても攻撃を防御できるシステムを構築する。

量子鍵配送

JPMorganは上記に加え、量子技術を使ったセキュアな通信技術の研究を進めている。これは量子鍵配送(Quantum Key Distribution、QKD)で、ハッキングできない安全なネットワークを構築する(下のグラフィックス、QKDの原理)。量子鍵配送とは通信網を量子技術で構成するもので、究極のセキュリティとも呼ばれる。具体的には、量子ビット(光子)を使った暗号化技術で、送信するデータが経路上で盗聴されると、その攻撃が分かる仕組みになっている。JPMorganはネットワークを量子鍵配送で構成することで極めて安全な通信網を構築する。

出典: Quantum Flagship

銀行が最初のユーザか

金融アプリケーションは量子技術との相性が良く、量子コンピュータで高速化できるアルゴリズムが多いとされる。しかし、これを実際に検証する必要があり、JPMorganはこの研究を進めている。具体的には、量子コンピュータ商用機が登場すると、金融システムにどんなインパクトがあるのか、また、どの金融アプリケーションを高速化できるのか、これらのポイントを明確にする必要がある。JPMorganはIBMのパートナー企業であり、IBM Qを使ってこの研究を進めている(先頭から二番目の写真)。まだ検証作業中であるが、量子コンピュータを導入するのは銀行が最初になるとの予測もある。

IonQは世界最大規模の量子コンピュータを開発中、イオンを使った高信頼性Qubitで巨人IBMに挑戦

量子コンピュータの国際会議「Q2B」(#Q2B20)が今年はオンラインで開催された。IBMやGoogleが先行する中、スタートアップIonQが新技術で大手企業に挑んでいる。IonQはイオンで高信頼性Qubitを生成する手法を取り、世界最大規模の量子コンピュータを開発していることを明らかにした。

出典: IonQ

IonQとは

IonQはメリーランド州カレッジパークに拠点を置く新興企業で、「Trapped Ions」という手法で量子コンピュータを開発している。2015年にメリーランド大学(University of Maryland)名誉教授Chris Monroeらにより設立された。今年6月には、量子技術でノーベル物理学賞を受賞したDavid WinelandがIonQのアドバイザーとして就任した。

Trapped Ionsとは

Q2BでChris MonroeはTrapped Ionsについて解説した(最後の写真、中央の人物)。Trapped Ionsとは電荷を帯びた原子(イオン)をQubitとする方式で、電子のエネルギー状態(エネルギーの高低)でQubitを作る。イオンは特殊なチップ「Ion Trap Chip」の中に格納され、周囲に電磁場をかけて3D空間に精密に配置される。(上の写真、チップの外観と閉じ込められたイオンのイメージ。イオンは青色の球体で示され、これらがチップの中に格納されている。)

イオンの操作方法

チップ内の空間に配置されているイオンに特定波長のレーザー光線を照射してこれらを操作する。「Write」操作では、イオンに情報を書き込み、量子ゲートを生成し、アルゴリズムを実行する。また、イオンを操作してSuperpositionやEntanglementの状態を生成する。更に、「Read」操作では、イオンにレーザー光線を照射してその状態を読み出す。

出典: IonQ

上のグラフィックスは量子ゲート操作を模式的に示している。オレンジ色の円がイオンでQubitを構成する。ここにレーザー光線(縦方向のオレンジ色の線)を照射してイオンを操作する。右上が量子ゲートを示しており、ここでは最後のゲート(右端の四角)を操作している。イオンを操作して、左から右方向に量子ゲートを生成し、アルゴリズムを実行する。

ロードマップ

IonQは量子コンピュータの開発計画を説明した(下の写真)。2016年に、実験機が研究所の中で稼働し、小型化を進め、今年はTabletop形状のシステムを発表した。更に、小型化を進め、2021年にはBenchtop形状のシステムとなり、スパコンを凌駕する「Quantum Advantage」を達成する。2023年にはRackmount形状のシステムとなり、2024年にはこれをネットワークで接続することで大規模構成の量子コンピュータを形成する。これにより、真の量子コンピュータ「Full-Scale Fault Tolerance」に到達する計画である。

出典: IonQ

量子コンピュータの性能

ロードマップに従い、IonQはシステムの性能を独自の指標で示した(下のグラフ)。量子コンピュータの性能を定義するのは難しく、しばしばQubitの数で比較されるが、IonQは「Algorithmic Qubit」という独自の指標(グラフ縦軸)を導入した。これは量子アルゴリズムの実行で使うことができるQubitの数を示したもので、Qubitの数が「最大性能」であるのに対し、Algorithmic Qubitの数は「実効性能」を示したものとなる。2028年にはエラー補正機構を備えたQubitで1024AQを達成し、大規模量子コンピュータを構成する。

出典: IonQ  

IonQの特徴

IonQの特徴はQubitのエラー発生率が他のアーキテクチャに比べ極めて低いことだ。このため、エラー補正に必要なQubitの数が少なくて済み、実質的に、アルゴリズムの実行で使えるQubitの数が増える。具体的には、IonQは13個のQubitを1個のQubitでエラー補正できることを実証した。これに比べ、IBMなどが採用している超電導ループ型Qubitはエラー発生率が高く、エラー補正機構に1,000個から10,000個のQubitが必要となるとされる。

IonQのチャレンジ

一方、IonQのアーキテクチャは拡張性に欠けると指摘される。Qubitを安定して生成できるが、そのための機器のサイズが大きく、これらを高密度に実装するのが難しい。この問題に関し、IonQ共同創設者のJungsang Kim(下の写真、左端)は装置設計の観点から開発計画を明らかにした。2023年には、レーザー発光素子をチップの中に搭載し、ワンチップに32個のQubitを搭載する。これをラックに搭載し、独立の量子コンピュータを形成し、その後、これらを光ファイバーで接続して大規模なシステムを形成する。

出典: IonQ

どのアーキテクチャが主流になるか

現在、IBMやGoogleが開発している超電導ループ型の量子コンピュータが主流になると見られているが、安定したQubitを生成することが課題となっている。一方、IonQは高密度実装が難しく、大型量子コンピュータを構成できないと見られてきた。しかし、大手企業の開発が手間取る中、IonQが急速に技術を伸ばし実用化に大きく前進した。新興企業がIBMやGoogleを逆転するのか、量子コンピュータ開発レースが白熱してきた。

米国空軍は量子コミュニケーションの開発を進める、ハッキングできない安全な通信網が国家のインフラを支える

シリコンバレーで2019年12月、量子コンピュータのカンファレンス「Q2B」(#Q2B19)が開催された。米国空軍研究所「Air Force Research Laboratory」は量子情報科学を防衛に応用する研究を進めている。空軍研究所は、量子コミュニケーションの開発を進め、敵国にハッキングされないセキュアな通信網を構築していることを明らかにした(下の写真)。

出典: VentureClef

位置情報システム

空軍研究所は量子技術を位置情報システムと分散処理システムに適用している(下の写真)。位置情報システムはPNT(Position, Navigation, and Timing)と呼ばれ、極めて正確な位置や時間を算出する。軍事ミッションで作戦を展開する際にこれらが基礎情報となる。通常、GPS(全地球測位システム)を使ってこれらの情報を取得するが、交戦中は敵の妨害で衛星のシグナルを受信できな。この事態に備え、量子技術を使って代替システムを開発している。空軍研究所は量子時計「Quantum Clock」や量子ジャイロスコープ「Quantum Gyroscope」を開発している。爆撃機はこれらの機器を搭載しGPSと同程度の精度で数時間飛行できる。

分散処理システム

もう一つは分散処理システムで量子コミュニケーションと量子コンピュータから構成される。量子コミュニケーションとは量子技術を使った通信で、敵国にハッキングされない極めてセキュアな通信網を構築する。量子コンピュータは大量の情報を高速で処理するために使われる。特に、オペレーションの最適化、人工知能、新素材の開発のための量アプリケーションを開発している。両者を組み合わせ量子技術による分散処理システムを構築する。

出典: VentureClef

量子コミュニケーション

空軍研究所が着目している分野がセキュアな通信網の構築である。ここでは「Quantum Key Distribution (QKD)」という方式が使われる。これは「量子鍵配送」と呼ばれ、秘密鍵を量子状態で送信する技法である。実際には、光の構成要素である光子(Photon)の位相に秘密鍵をエンコードして送信する。次に、生成した秘密鍵でテキストなどを暗号化して送り、受信者はこれを秘密鍵で復号化する。この方式では、送信経路上で第三者が秘密鍵を参照すると(秘密鍵を盗むと)、鍵の量子状態(Superpositionの状態)が崩れ、ビット状態(1か0)になる。これによりデータが盗聴されたことが分かるので、極めてセキュアな通信網が構築できる。

衛星通信

この技術は早くから開発されており、ロスアラモス国立研究所は2007年に、ファイバーケーブルによるQKD方式の暗号通信に成功した。空軍研究所は衛星通信によるQKDの開発を進めている(下の写真)。小型衛星と地上局との間でシグナルをセキュアに送受信する試験を進める。更に、複数の衛星でネットワークを構築し、大容量のデータを安全に送受信することが最終ゴールとなる。ここではスパイ衛星が観測したデータを敵国にハッキングされないで安全に地上に送信することを想定している。

出典: VentureClef

複数ノード間での通信

この他に、航空機や地上の基地局を量子コミュニケーションで結ぶ研究も進められている。QKDは極めて安全なネットワークであるが、送信できる距離が短いことが最大の課題となる。この方式では光ファイバーが使われるが、光子がこの中を進むときにその強度が減衰する。今の技術では100キロメートル以上進むことは難しいとされる。そのため、光子を増幅するためのデバイス「増幅器(Repeater)」が必要になる。現在の増幅器は「Trusted Node」と呼ばれ、量子鍵をビットに変換し、それを再度、暗号化する仕組みとなる。空軍研究所は、量子鍵をビットに変換しないで量子状態のまま増幅する「Quantum Repeater」を開発している。増幅器は一対のEntangled Photons(一対の光子が結び付いた状態)をTeleportation(光子の状態をテレポート)させる仕組みで、いかに高速(高輝度)で高品質(稼働時間の長い)の光子対を生成できるかが勝負となる。

出典: VentureClef

米国政府と民間が協調

空軍研究所はブースを設け、ここで研究の最新情報を説明するだけでなく、共同研究のパートナーを募っていた(上の写真)。空軍研究所は企業とのコラボレーションを通し研究を進める作戦を取っている。量子コンピュータや量子コミュニケーションはまだ黎明期の技術で、政府機関が民間企業の技術開発を後押しする構造を示している。また、空軍は仮想敵国との交戦に備え量子コミュニケーションの開発を急いでいるが、この成果は民生化されアメリカ社会で展開されることになる。スパコン開発でもそうであったが、米国は軍と民間が共同で量子コンピュータと量子コミュニケーションの開発を進めている。